2010年06月24日

その一言が大変に重い

徒然草 第33段  その一言


今の内裏作り出されて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、
既に遷幸の日近く成りけるに、玄輝門院の御覧じて、「閑院殿の櫛形の穴は、

丸く、縁もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。

これは、葉の入りて、木にて縁をしたりければ、あやまりにて、なほされにけり。
 

       徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
                   
  

第33段 その一言が大変に重い

新しく冷泉の富小路の内裏をお造りになり、建築に精通しているその筋の者に
お見せになったところ、誰もが「よくできている」と言ったという。

しかし遷都の日も近づいた頃、玄輝門院がこれをご覧になり「閑院の殿に
ある櫛形の穴は、丸く、縁もなかった」と述べたこの言葉の持つ意味は重い。

この新しい内裏には、葉の模様が入り、木で縁が作られていたため、
これを誤りであるとして作り直したということだ。


要は、新しい首相官邸が必要になって出来上がったので、安藤忠雄という
有名建築家に見てもらったら、「よくできている」と言ったという。

しかし、新内閣成立も近づいた頃、新首相がこの建物をご覧になったら
「床の間に日本の国旗が飾ってあるのはけしからん。」ということで、

アメリカの国旗を飾ることにして、床の間を作り直したということだ。と。

まっ、吉田兼好が何が面白かったのか良くは理解できないが、現在でも
作ったはいいが、水が溜まらないダムだとか、冷蔵温度が下がらない

農業貯蔵施設とか、展示するものが陳腐で来客がないという公立の博物館とか
作り直すには、この財政難の中でどうしようもないっていう施設だらけ。

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2009年12月01日

来客への思いやりのある気遣いとは

徒然草 第32段  来客への気遣い


九月(ながつき)二十日の頃、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事
侍りしに、思し出づる所ありて、案内(あない)せさせて入り給ひぬ。

荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ〔たきものの匂ひ〕しめやかに
うち薫りて、忍びたるけはひ、いと物あはれなり。


            このあとも続きます。自分で調べて・・・。

       徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
                   
  

第32段 来客への思いやりのある気遣いとは


9月20日の頃、ある方に誘われ、夜明けまでハシゴ酒をして歩いた事があった。
2軒目をお開きにした後、その方が思い出した場所があり、その人に案内されて

入っていった小さなスナックがあった。

荒れ果てた都会の喧騒には夜露が渡り、初秋の香の薫りがごく自然に漂い、
スナックのママが一人しのびたたづむその様子は、常に物悲しさとともに

あるように感じられた。

飲み会に同行された他の方は、やがて満足して外に出ていらっしゃったのだが
私は美しく品のあるそのママのたたずまいから離れることができずに、

カウンター越しにしばらくそれを眺めていた。
するとママが戸を少し開け、先に帰った方を眺めている姿が目に入った。

余計な客人が去って後、すぐに店の鍵を掛けて室内にこもってしまったとしたら、
「わー、どうする俺!?」って映画のようなシーンを思い浮かべたのだが、

お客が帰ってすぐ扉を閉めるっていうのは、何か客人への配慮に欠けるように
思えてならないものだが、この方にはそのようなことがなかった。

まさかすでに帰ったはずの者がしばらくその場にとどまり、その後まで
見ているなんていう輩はいないとは思うが、最後の最後まで客人への配慮を

忘れないというママの姿勢が、友をして「いい店だよ。」と言わしめる
所以だろう。

このような心遣いは付け焼刃でできるようなことではない。
残念なことに、この方はその後間もなく店をたたんで良人のところへ

嫁いで行ったということだ。
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2008年11月30日

時候の挨拶も出来ないなんて・・・

徒然草 第31段  時候の挨拶も出来ないなんて


雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、
雪のこと何とも言はざりし返事に、「この雪いかゞ見ると一筆の

たまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは。
返す返す口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。

今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。


       徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 
  

第31段  何で気づかなかったのだろう

雪が気持ちよさそうに降った朝、ちょっと人に用事があって手紙を書いた。
手短にすませて、雪のことなんか書かないで投函したら返信にこうあった。

「雪で君はどんな気持ちですか? ぐらいは書いてほしかった。
気のきいたことも書けないつまらない人の用事なんて聞きたくないですから。

本当に最低よ」それを読んで、熱くこみ上げるものがあった。
今となっては亡くなってしまった人の、こんなことさえも忘れられない。


 

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2008年06月17日

人の亡き跡ばかり、悲しきはなし

徒然草 第30段  人の亡き跡ばかり、悲しきはなし


静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。

人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、

後のわざども営み合へる、心あわたゝし。・・・・
       

              この後も続きます。自分で調べて。


       徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 
  

第30段  人の亡き跡ばかり、悲しきはなし


人の亡くなった後ほど物悲しいものはない。
秋葉原の通り魔事件や、一昨日の岩手・宮城内陸地震で

亡くなった方々のご遺徳を偲び、哀悼の意を表します。

先々週の日曜日のお昼ごろ、私めも近親者のお葬式で
ちょうどお昼ごろは、火葬場の控え室という狭い所に

多くの人たちとすし詰めにさせられている状態でした。

この段のようにちょうど不便なところの火葬場で・・・・
というか、もともと火葬場は不便なところにあるもんで。

吉田兼好のころもお葬式はあったのでしょう。どうも49日の
法要までいたようですが、その49日目には参列者も、

言葉数が少なくなり涼しい顔をして荷造りをすませ、
蜘蛛の子を散らすように帰っていくんだって。

そして、元の家に戻ってから本当に悲しいのに、
「もう忘れちゃいましょう」なんて言われると、なんと

下品なやつなんだと考えてしまうんだって・・・。

確かに人が亡くなるということは本当に悲しいことなのに、
そんなことは平気で忘れたり、忘れた振りをしながら

生きていくのが我々人間の生活の知恵なのでしょうか?


 

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2008年03月27日

寝静まった夜に一人

徒然草 第29段  寝静まった夜に一人


静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。

人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたゝめ、
残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、

絵かきすさびたる、見出でたるこそ、たゞ、その折の心地すれ。


                    このあとも続きます。自分で調べて。

  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 
  

第29段 夜一人、物想う

夜、一人静かに考える。何事も、過ぎ去ったことへの懐かしさ
恋しさだけは、如何ともしようがない。

人々が眠りについて後、長い夜の一人気まぐれに、新年度だし、
手許の所持品やつもり積もった書類の下の方などの整理をし、

残しておく必要もないだろうと思われる物を破り捨てていると、
もう亡くなってしまった人の、文字の練習をした紙や、

絵を描いて遊んだ紙が出てくる。
私なんかだと、確定申告に使わなかった忘れた領収書や

どこかのママさんなんかの名刺が出てきたりする。

するとただただ、その当時のことで胸がいっぱいに
なってしまうものである。

どんな人だったっけ??何を話したんだろう??
いくら交際費が認められているとはいえ、なんだこの飲み代は??

まだ生きている者からの手紙であっても、疎遠になって久しくあれば
「これはどんな時に届いたものだろうか、

どの年のことだったものかな」としみじみ考えたりもするものである。
特に、就職して遠くに離れていった女の子からの手紙は

まるで嫁にやった娘からの手紙のように思えて・・・・。(ウルウル)
使い慣れた手持ちの道具なども、彼に心は無くとも、

絶える事なく手許にある。何とも感慨深く思われるものだ。
そうそう、最近は写真はデジタルだからCDに入っているのだが

そのCDを久し振りにパソコンにいれてみると、本当に
何とも感慨深く思われるものだ。

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2007年10月24日

わび・さび とは

徒然草 第28段  わび・さび とは


諒闇の年ばかり、あはれなることはあらじ。

倚廬の御所のさまなど、板敷を下げ、葦の御簾を掛けて、
布の帽額あらあらしく、御調度どもおろそかに、

皆人の装束・太刀・平緒まで、異様なるぞゆゝしき。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第28段 侘(わび)と寂(さび) 

天皇が親の喪に服す年ほど、どことなく張り詰めたような、
そんな寂しさを感じることもない。

お篭もりになられる仮御所は、板敷きを地面に降ろし、
いつもなら竹で編んでいる簾(すだれ)も葦のものをかけ、

その上部に引き渡す布も粗末に見える程に地味な色のものを使い、
道具も簡易的なものが用意されている。

その場に仕える人々の装束、太刀、平緒までもが普通とは
異なるその様子は、何とも畏れ多く厳粛に感じられるものである。


一般的に「喪に服す」とは、近親者に不幸があった場合、
親族は故人との間柄にしたがって一定期間、あまり派手なことを

しないで、いつも故人のことを懐かしみ忘れないように
することです。(だと、思う。)

この期間は、結婚式や賀寿などの祝いの席への参列、
神社への参拝、年賀の挨拶、新年の飾りなどを控えるのが

本来の姿なのでしょう。

まっ、これは仏教だけではなく他のキリスト教や
イスラム教にもあるようです。

でも、最近はつき合いやコミュニケーションの方が大事にされ
喪に服していても「カラオケ」で、思いっきり歌っている人も

いますので、「喪の服し方」も様々で良いのではないでしょうか?
そういえばそろそろ、喪中はがきの準備の時期ですね。

今日は、この問題よりも吉田兼好が感じている「あわれではなく」
いつもなら竹で編んでいる簾(すだれ)も葦のものをかけ、

その上部に引き渡す布も粗末に見える程に地味な色のものを使い、
道具も簡易的なものが用意されている。

ようはこの「わび」に対して「何とも畏れ多く厳粛に感じられる」と
言っているデザイン感覚です。

もうこの「WABI」と「SABI」という言葉は、世界的に
知れ渡った美意識なのですが、ちょうど別なブログで

この辺のところをアップしました。

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2007年09月19日

もう、はや過去の人

徒然草 第27段 かゝる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。


御国譲りの節会行はれて、剣・璽・内侍所渡し奉らるる
ほどこそ、限りなう心ぼそけれ。

新院の、おりゐさせ給ひての春、詠ませ給ひけるとかや。

殿守のとものみやつこよそにして掃はぬ庭に花ぞ散りしく

今の世のこと繁きにまぎれて、院には参る人もなきぞ
さびしげなる。かゝる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。



  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第27段  もう、はや過去の人

新帝への御譲位の儀が行われ、草薙(くさなぎ)の剣、
八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)、八咫(やた)の鏡の

三種の神器が新帝の下に渡される時ほど、どことなく心細いものを
感じることもない。

そういえば、花園上皇が後醍醐天皇に御譲位された年の春に
詠まれたとされる歌に、

殿もりのとものみやつこよそにして はらはぬ庭に花ぞ散りしく

--------------------------------------------------
主殿寮の役人は皆、新帝の下に移ってしまったようだ。
手入れをする者もない庭に花が咲き乱れている。
--------------------------------------------------

とある。新しい帝の下での忙しさにおされて、上皇の院に
参上する人もない寂しさ。

こういった時にこそ、人の心の内が現われるのであろう。



安倍首相の突然の辞任、そして入院から1週間。
機能性胃腸障害という心の病で、まだ首相は今週も入院を
続けられるそうです。

安倍首相周辺によると、17日の診察の結果、容体に変化がなく、
病院側から「今週いっぱいは入院してほしい」との要請があったという。

関係者によると、この日も首相に見舞客らの面会者はなく、
きれいな昭恵夫人が付き添い点滴などを受けたそうです。

新聞やテレビなどはあまり見ていないという。
なんでも一国の首相が入院するには、けっこうガッサイ病室らしい。

吉田兼好の頃より、人間社会も弱肉強食の世界であった。
コインの裏表のように裏になったとたん、周りの人は逃げていく。

会社でバリバリ働いていたものがちょっと病気になったとたん、
リストラや閑職に追い出される。

時代の寵児ともてはやされた者が特捜の捜査が入ったとたん・・・・。
株価暴落・・・・等、たくさん見てきていますよね。


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2007年08月18日

荒れ果てた庭に咲くスミレ


徒然草 第26段 荒れ果てた庭に咲くスミレ

風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、
あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、

我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりも
まさりてかなしきものなれ。

されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを
嘆く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、

昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第26段  傍らに咲く花の去りゆく様が世の常ならば

  北海道の子供盆踊り歌 歌詞です

 そよろそよ風 牧場(まきば)に町に
 吹けばちらちら 灯(ひ)がともる
 赤くほんのり 灯がともる ほら灯がともる
 シャンコシャンコシャンコ
 シャシャンがシャン
 手拍子そろえて シャシャンがシャン


 笛も流れる 太鼓(たいこ)も響(ひび)く
 風が流れる なか空に
 手拍子(てびょうし)そろえて ほら回れ ほら回れ
 シャンコシャンコシャンコ
 シャシャンがシャン
 手拍子そろえて シャシャンがシャン


北海道の夏は短く、子供達の夏休みもお盆を過ぎると
すぐ終わってしまいます。

そんな夏休みも終盤のここ1週間ほどの夕暮れ、
どこからともなく聞きなれたお囃子が聞こえてきます。

短い夏を締めくくる「盆おどり」です。
北海道は夕暮れから少し暗くなる7時ぐらいまで、

まっ大人の盆踊りの前の前座として、この子供盆踊りが
私の小さい頃から行なわれていました。

小学生の頃、このお囃子が聞こえてくると夏の終わりと
夏休みの終わりを感じ、たまった宿題などに思いを

馳せたものですが、大人になってからもこの唄は夏の楽しさと
哀愁の両方を感じるのは私だけでしょうか。

今年も盆おどりがそこここで開催されておりました。
神社や近所の公園から、盆おどりのお囃子が聞こえてきます。

なつかしい「シャンコ、シャンコ…」というメロディです。
この盆踊り歌は、北海道のみなので北海道以外の方にも

紹介したかったので・・・ここに記してみました。


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2007年07月04日

産業突然死の時代

徒然草 第25段 栄華が続く事はなく

飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、
悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、

変らぬ住家は人改まりぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。
まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。


           このあとも続きます。自分で調べて・・・。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第25段 産業突然死の時代 

世の中に不変であり続ける事があるだろうか。飛鳥川、昨日の淵は
今日の浅瀬。時が移り、事は去り行き、哀楽行き交い、賑やかで

あった辺りも人の住まない野原と変わり果て、変わらずにあった
家の住人も今は違う顔である。

桃李は何も語らない。私は誰と昔を語ればよいというのだ。
知っている土地でさえこのような思いにとらわれるというのに、

ましてやこの目で見る術もない、当時は貴いものであったのだろう
建物の跡地になら、なおさらなんとも定まらない心地になるものだ。

・・・・中略・・・・

法華堂が辛うじて残ってはいるものの、これもまたいつまでここに
立っていられるだろうか。

名残すらない所に礎だけが残っていることもあるが、その詳細を
知る者もない。

したがって全てを見る事もかなわない後の世を予め考えようとするのは、
何とも虚しくそして意味の無いものである。 


吉田兼好さんって、結構後ろ向きの悲観論者なんだね。
「世は無常なり」って常じゃないことは当たり前で、だから

教会やら神主さんやら、最近は人前結婚式と言って友人達の前で
永遠の愛を誓ったとしても、結婚したカップル8組のうち、

3組が離婚している現状なんだろうし・・・・。
防衛省の大臣も小池百合子さんに替わったんだろうし・・・。

そんなことより、この25段ではいろんな建物のことが
述べられていますが、「したがって全てを見る事もかなわない後の世を

予め考えようとするのは、何とも虚しくそして意味の無いものである。」

な〜に、言ってんだか。建築家とかデザイナーを否定しているのか?
そりゃあ、100年後や200年後の世の中がどうなっていようと

私には何とも虚しく関係の無いものだが、脈々と続いていくであろう
向こう三軒両隣の人たちの「こうしたい」「ああしたい」という

想いのかけらが少しづつ、少しづつ我々を幸福に導いているんだと
思うのです。

いや、そういうみんなの希望があるからこそ、いろんなビジネスが
成り立っていくんだろうと思うのです。



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2007年06月08日

空間のおもむき 

徒然草 第24段 宮中だからこそ

斎宮の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、
面白き事の限りとは覚えしか。

「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など
言ふなるもをかし。


 このあとも続きます。自分で調べて・・・。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第24段 空間のおもむき 

皇帝が即位する際に選ばれる皇室の乙女である斎宮が、
伊勢神宮に籠もる前に京都の嵯峨野で身を清めている姿は

なんとエレガントで心が引かれること世界一である、と思った。

「お経」とか「ホトケ」という単語を使うのは避けて、
「染め紙」とか「中子」とか代用語を使っているというのも、面白い。

何でもかんでも神様の建物は、放っておけないほど洗練されている。

古びた森の姿は、ただごとではない様子を呈している上に、
塀を作って、榊の葉っぱに布をかけているのを見て、

じっとしてなんていることができるものだろうか?
 
そんな感じで、おすすめのスポットは、伊勢神宮、賀茂別雷神社、

奈良の春日神社、京都の平野神社、大阪の住吉神社、
奈良県桜井市三輪町の大神神社、京都市の貴船神社、同じく吉田神社、

大原野神社、松尾神社、梅宮神社、などである。


・・・なあに、言ってんだか。。。
皇室の乙女が京都の嵯峨野で身を清めている姿は、実際どんな風に

身を清めるのかは知りませんが、一般的に身を清めると言えば
水行である滝に打たれたりとか、水浴びをするって言うことだったら

そりゃあ、吉田兼好の頃の乙女だもん、ビキニの水着もなかったろうし
薄い長じゅばんのまま水浴びしていたとしたら・・・・。

どんな男だって心が引かれること世界一である。
ルノワールや他の画家の人たちも水浴びをする女性を描いてきたのは

心が惹かれたんだろうと思います。
まっ、これは置いておいて神様の建物が良いといっています。


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2007年04月17日

その場所の持つポテンシャル

徒然草 第23段 宮中だからこそ

衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、
世づかず、めでたきものなれ。

露台・朝餉・何殿・何門などは、いみじとも聞ゆべし。
あやしの所にもありぬべき小蔀・小板敷・高遣戸なども、

めでたくこそ聞こゆれ。
「陣に夜の設せよ」と言ふこそいみじけれ。


 このあとも続きます。自分で調べて・・・。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第23段 その場所の持つポテンシャル

ポテンシャル?って分らない人のために・・・。
ポテンシャルとは、英語で一般的に「潜在的な」という意味の形容詞である。

そこから転じて潜在的能力のことをさします。
場の持つポテンシャルとは、その場所(土地や建物)が持っている

潜在的な能力を言いますが、物理用語では潜在エネルギーとも
言っていて、建築や都市計画の仕事をしている人には

何となく分ると思うけど、知らない人のために簡単に
説明しましょう。

土地については、例えば同じ面積の土地であったとしても
法律で建てられる建物の種類が制限されています。

同じ面積の土地なのに、北向き、南向き、道路の位置や最寄駅の
距離などによって、その土地が持つ潜在的な能力が違います。

もっと分りやすくいいと、北海道の山奥の土地1万uと
東京銀座の10uの持つ潜在能力を考えれば・・・ね。

で、何が言いたいのかというと第22段では、言葉がナットランと
ギャル言葉はよく分らんと言っていた吉田兼好であるが、

この段では、世の中は電力会社の不正隠しや車ドロボーを
捕まえようと思ったら事故られて、亡くなってしまったとか

どこかの農協のセクハラとかで、衰へたる末の世とはいへど、
なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。

って、宮中の様子や場所がとっても良いって言ってます。
宮中ではない所にもあるだろうけど小蔀・小板敷・高遣戸なども、

宮中にあるからこそ、めでたくこそ聞こゆれ。
小蔀・小板敷・高遣戸などは建築用語ですが、格子付きの窓などを

言いますが、庶民のところにある小板敷より宮中の小板敷の
ほうがとってもいい〜・・・・だって。

この段の解釈は、宮中という場所が居心地が良いといっているのか、
宮中という場所のもつポテンシャルにめでたきものなれと

いっているのか?


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2007年03月29日

温故知新

徒然草 第22段  古き世のみぞ慕はしき

何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそ
なりゆくめれ。

かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそ
をかしと見ゆれ。

文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞ言ふ言葉も、
口をしうこそなりもてゆくなれ。

古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、
今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。


 このあとも続きます。自分で調べて・・・。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第22段 徒然草の頃も「昔はよかった〜」だって

このブログのタイトル「温故知新」 


何事においても、古き良き時代へと心はひかれてゆくものである。
そして新しければ新しいほどに軽薄になり、

品を失って行くように思われる。

細工職人の作った素晴らしい道具であっても、昔に作られた
物の方により深みがあるようだ。

手紙に使われる語も、昔に用いられた、意味も残っておらず
役に立ちそうもない言葉であっても、古い方がよほど
素晴らしく思われる。

ただ口にしただけのような何気ない言葉ですら、
現在使われているものには何とも感心しないものが多い。

古くは「車もたげよ」「火かかげよ」と言っていたものを、
近頃の者は「もてあげよ」「かきあげよ」とわざわざ細かく発音する。

・・・と、吉田兼好も若者言葉を嘆いているが・・・。

もう、なんら今と変わらないじゃない。


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2007年02月23日

水の流れはとどまることを知らず

徒然草 第21段  水の流れはとどまることを知らず


万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ。ある人の、
「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり、

「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。
折にふれば、何かはあはれならざらん。

 このあとも続きます。自分で調べて・・・。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第21段 水(時)の流れは止められない 


何であれ、月を見ることで情趣は味わえるものである。
「月ほど趣深いものはない」と言葉に対し「霞の方がより雅に

思われるものだ」と別の者が言い返しているそのやりとりも、
また味わい深く感じられるものである。

お酒を飲みすぎた後の「ラーメン」も、いい味だが
焼肉屋さんの「レーメン」もまた、味わい深く感じられるものである。

夏に食べるほっかほかの「肉まん」もいいけど、
冬に食べるアイスクリームもいいもんだ。

昔、冬の北海道の家は断熱材なんてなかったから、それはそれは
寒くてストーブを思いっきり炊いていたもんだ。
(この言葉?文化遺産?)

赤くなるくらいのストーブの廻りで、どういうわけか
薄着のまま「冷えたビール」を飲むのが風情があったもんだ。

どんなものであれ、その折々に風情が感じられるものなのだ。
吹雪の中のミニスカートだとか、半ズボンと半そでで

歩くスキーを近所の路地でしているガキンチョとか
今年の冬は暖冬だから許せるけど・・・・。



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2007年01月23日

名残惜しい人になろう

徒然草 第20段 名残惜しいもの。

某 とかやいひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、
ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことに、

さも覚えぬべけれ。


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第20段 名残惜しい人になろう


某といった世捨て人が「現世に縛られるものなど何も持たない
我が身であるが、終わり行く季節の、その余韻が薄れて行く

姿こそが名残惜しいなんて思っちゃいます」と残したこの言葉は、
なるほど的を得ているように思われます。

不二家製菓のペコちゃんは、なんか藤谷さんの系列じゃない人が
社長になって、新生「不二家」を目指すようで、株価もちょっと
持ち直したりして・・・

あるある発掘大事典という番組は、スポンサーが降りるということで・・・。
もう終わり行く季節になっちゃいそう。

北見のガス漏れ事故、今日もまたガス漏れが見つかって6箇所だって・・・。
私も実は、北海道ガスとはいろいろと業務上関係があって・・・。

そんな古いガス管を更新も出来なかった北見企業局から、
ガス事業を引き継がざるを得なかった北海道ガスには味方もしたくなるけど、

やはり最初のガス漏れの時の対応とか、その後の対応とか
いろいろとマズイ面が・・・。

私も、一応技術屋の端くれのところもあるので本日の6箇所もガス漏れが
あるということはどういうことなんだろうと、

いろいろとニュースを見てみると・・

ここ 
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000000701220010


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2006年12月06日

季節への思い、それぞれに

徒然草 第19段 

  折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。

「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、
それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、

春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、
のどやかなる日影に墻根の草萌えいづる頃より、やや春深く

霞みわたりて、花もやうやうけしきだつ程こそあれ、折しも、
雨風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、

万に、ただ、心をのみぞ悩ます。
花橘は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、

立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、
藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。

          
          このあとも続きます。原文は自分で調べて


    徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 


 第19段 季節への思い、それぞれに

季節が移り変わりゆくその姿に、人は何か深い物を感じるのである。
そういう意味では、四季の季節のはっきりした日本で生まれ育って

良かったと思うのです。
まっ、それほど詳しくは北欧の白夜のある地方の国や、砂漠ばかりの

国を知っているわけでもないが、結構日本中仕事で旅行した
経験から述べさせてもらうと、四季折々、その地方ごとの風習やら、

お祭りやらを見てくると、本当にいいなあと思うのです。
しみじみとした美しさを感じさせる季節は、秋を差し置いて他にない。

そう人々は口にします。
一生懸命、働いて秋の収穫を終えた後のほっとした気持ちと、

また冬が来る、来年の農作業の準備期間だという次の仕事への
準備があるという日本人が本来持っている、農耕民族の
習性なのでしょう。

確かにその通りだとも思えるのだが、吉田兼好は春の思いから
述べているが、季節柄、冬についてのみ解釈していこう。


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posted by 情報建築家・niNaru  at 02:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生・生き方に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月19日

たまにはモダンデザインもいいけど

徒然草 第18段 人は、己れをつゞまやかにし

人は、己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、
世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。

唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、
水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を

人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、
風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。

また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。
孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、

朝には収めけり。

唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、
これらの人は、語りも伝ふべからず。

                      ここまで


      徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 

第18段 たまにはモダンデザインもいいけど

質素に生き、贅沢を避け、財を成すことなく、権力に執着しないことが、
人としてのあるべき姿である。

昔から賢き人が富を持つことはまずない。
唐(中国)の許由という人は、貯えというものを全く持たず、水すらも

手のひらで飲んでいるような有り様だった。
それを見た人が瓢箪(ひょうたん)製の器を与えたのだが、

ある時、それを木の枝に掛けていたところ、風に吹かれて
音を立てたことから、許由は「うるさい」と言って捨ててしまった。

そして再び手ですくって水を飲むようになったという。
耳障りな音を立てる物がなくなって、どれほど心がすっきりしたことだろう。

(許由は偏屈なバカオヤジだと私は思う)

孫晨(そんしん)は、冬場であっても掛け布団を持たなかったので、
夜には一束あった藁を掛けて眠り、朝にはそれをしまったという。

(しまわないと、藁がくずになっちゃうでしょう?
これのどこがすばらしいのだ?)

唐の国の人々はこれらを素晴らしいことだと思ったからこそ書き残し、
後世に伝えたのだろうが、我が国の人々はこういった話を

語り伝えるようなこともないだろう。
(当然です。文化が違うのですから・・・・日本は雅の文化です)

何年か前に、「シンプルデザイン イズ ベスト」というコピーが
日本でもはやりましたが、ある一時のことだから受け入れられるのです。

何故かって、常に揺れ動く「曖昧な日本人」だから・・・。
(参照 11月14日 記事)

私は、こういう質素に生きようとか贅沢は敵だなどという文章は
人間の本質を理解していないか、理解しながらどっかの方向へ

導いていこうとする為政者のような感じがして嫌いである。


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タグ:デザイン
posted by 情報建築家・niNaru  at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生・生き方に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月07日

お空の神様につかえよう

徒然草 第17段  山寺にかきこもりて

山寺にかきこもりて、仏に仕うまつるこそ、つれづれもなく、
心の濁りも清まる心地すれ。


      徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 

 
第17段 お空の神様につかえよう

山寺にこもり、仏につかえることによって、心にある退屈や
不安が薄れ、消えて行く。また同じようにして、

心に溜まってしまった澱(おり)も癒されゆくような
心地がするものである。


あの本田美奈子さんの1周忌に福山雅治らによる追悼プロジェクトだとか、
「クールファイブ」内山田洋さん、肺がんで今日なくなったそうです。

宗教の問題は、あまりブログで書くべきことではないような
気がするので、私は別荘かどこかの山小屋にこもるという事でも

書こうと思ったけど、よく考えたらそんな所にこもったことも無く
もっぱら仕事部屋にこもることが多いんで、心に溜まってしまった澱は

もう溜まりに溜まって溢れかえっている状態である。

ちょっと、話は一般的な宗教観について記してみましょう。

「あなたの宗教は何?」という質問に対して、日本人の7割は
無宗教と答えるそうである。

だが、そのうちの75%は宗教心が大切だと考えてもいるという。
宗教には、自然宗教と創唱宗教の2種類があるそうだ。

創唱宗教とは特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる
人たちがいる宗教。キリスト教やイスラム教、仏教などを指す。

これに対して自然宗教とは、いつ、だれによって始められたかも
分からない自然発生的な宗教のことを言うそうです。

だが、無宗教のはずが、葬式仏教は一般的だし、正月には何千万人が
初詣で神社を参詣する。クリスマスツリーはもう飾られていて

12月25日までキリスト教徒の真似をする。
人が亡くなれば四十九日や一周忌、三周忌などの法要も忘れない。

これだけ生活や死生観に、宗教の影響を持ちながら、
日本人の無宗教というのは本当に不思議で面白いといえる。

そう思えるようになったのも、いろいろと経験をしてきたからで
小、中学生の頃は時期ごとに宗教を変えるのは、当たり前だと

思っていたもの。皆もそうでしょう?。大方の人は。


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posted by 情報建築家・niNaru  at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生・生き方に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月24日

神楽こそ、なまめかしく

徒然草 第16段 神楽こそ、なまめかしく

神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。

おほかた、ものの音には、笛・篳篥。常に聞きたきは、琵琶・和琴。


      徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 

 
第16段 ビール缶を箸で叩きながら

神楽という皇室サロンの演奏会は優雅だしハートを揺さぶる。

よく聞こえてくる音は、普通の笛とひちりきという小さな竹笛で、
どんなときでも聞いていたいのは、琵琶やお琴だ。


神楽とは、日本全国、その地方地方の神様などによってその神前にて
舞われる芸能のことです。。

神をまつるために奏する舞楽。宮中の神事芸能で、先行の
琴歌神宴(きんかしんえん)などに、石清水八幡(いわしみず

はちまん)などの民間の神遊びを取り込み、平安時代に
内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)として完成・・・・

と、書いてもどうでもいいことで、よく見かけるのは神社に
厄払か何かの祈祷にいったときに、巫女さんが踊ってくれる

巫女神楽(っていうんじゃないかな?)。
厄払のことは、自分で調べて。それで、私も行ったりした訳ですよ。

神前で、巫女さんが踊ってくれるの・・・。
それこそ、なまめかしく、おもしろけれ。

笛はこの時も聞こえてくるけど、何と言っても巫女さんが
手に持っている鈴を、時々シャリン、シャリンって・・・。

この鈴の音が私の場合はハートを揺さぶるのである。
(理解できない人は、理解しないでいい・・・意味がないことなんで)



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posted by 情報建築家・niNaru  at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生・生き方に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月12日

しばし旅立ちたるこそ

徒然草 第15段 しばし旅立ちたるこそ

いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。

そのわたり、こゝかしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、
いと目慣れぬ事のみぞ多かる。

都へ便り求めて文やる、「その事、かの事、便宜に忘るな」など
言ひやるこそをかしけれ。

さやうの所にてこそ、万に心づかひせらるれ。持てる調度まで、
よきはよく、能ある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。

寺・社などに忍びて籠りたるもをかし。


      徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 

 
第15段 異空間に出てデザインセンスを磨こう

その目的地がどこであろうと、しばらくの間旅に出ると都会の喧騒から
離れて、新鮮な気持ちになれるものである。

と、言ってるのは都会暮らしの人で田舎の人は逆に都会に出てみるといい。
どっちにしろ、前に書いた「ハレ」と「ケ」のことと同じように、

日常からちょっと離れて、特別な空間に身を置くということは、
我々の忘れていた感性を呼び覚ましてくれることが多い。

旅の途上であちこち見て歩き、それが田舎びている所であったり山里で
あったならば、ことさら沢山の物珍しいものに触れることができる。

少し前なら、スケッチ旅行なんていっていたりしたものだが、
本当に便利になったもんだ。

気に入ったものや、興味を持ったモノなどカメラ付き携帯でパシャ。
ついでに、都への近況確認の手紙に「あの事や例の事に関して、

よろしく忘れないように頼む」と記すのもまた味なものだ。
と昔は言っていたものが、パシャをした携帯で、「あの事や例のこと、

きちんとやっておいてくれよ」と言って、すぐにドライブモード。

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posted by 情報建築家・niNaru  at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生・生き方に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

昔の歌は良かった〜!

徒然草 第14段 昔の歌は良かった!

和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、
言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」と

言へば、やさしくなりぬ。

この比の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、
古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、

けしき覚ゆるはなし。
 

       (このあとも続きます。原文等は自分で調べて。)


  徒然草 現代語訳から引用し勝手に注釈をつけました。
 
 
第14段 近頃の歌は・・・


和歌とは本当に奥が深いものである。身分の低い木こりや猟師の仕事も、
歌として言葉にすれば趣あるものになり、恐ろしい猪も

「枯れ草を敷き詰めた猪の寝床」と読めば優しく感じられるようになる。

近頃の歌は、確かにどこか一点はなかなかうまく言い表していると
思われるものはあるのだが、どういうことなのか古(いにしえ)の歌の

ような言葉の裏にある奥行きが見えてこない。
紀貫之が「いとによるものならなくに」と詠んだ作品は、古今集の中の

歌屑などといわれ続けているが、今の者にこのような格調高い歌が
読めるとも思えない。

かの時代の歌には、歌体、詞(ことば)遣いにこのような品の良さを
感じさせる作品が多い。

この歌だけが酷評されているのは解せないことだ。
源氏物語にも「ものとはなしに」と貫之の歌に関して書かれている。

                 ・・・・ここまで現代語訳・・・

意味は、知らないのだが今良く使われる「なんとはなしに」と同じかどうかは、
調べるのも面倒なのでこのままにして置きますが、そう、なんとはなしに・・・

私の場合は、テレビっ子じゃなくてラジオっ子だったから、仕事をしながら
ラジオをつけているのが多いのだけど、ラジオから流れてくる新しい曲を

聴いて、「いいなあ」とか「歌ってみたいなあ」と思う歌が、時々あります。
しかし、聞いている時はいいなあと思っていても物忘れがひどくて、

歌詞も歌手の人の名前も覚えていないということが多い。

そんなのでも、最近は映画の宣伝なんだろうけど「なだそうそう」が
流れてくるとまた、沖縄へ行きたくなってくるから不思議なものです。


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posted by 情報建築家・niNaru  at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生・生き方に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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